あさって画廊
■テーマもタイトルもない絵


 作品を観てくださる方から、「この絵のテーマは何ですか?」と聞かれることがあります。「何もありません」と答えるとへんな顔をされます。「でも、何かを伝えようとしているのでしょ?」「いえ、何も…」。そんな会話をすることもあります。
 私の作品にはタイトルもありません。便宜上の番号がふってあるだけです。「タイトルがないとわかりにくい」と言われることもあります。そのへんに実は、日本人のアート感覚の問題があると思っています。と言うか、子供の時からの間違ったアート教育の弊害だと言っていいと思います。

●アートに意味などない

 子供は絵を描くのが好きです。紙とペンがあれば、いつの間にか何か描き出します。そんなとき、親や大人たちが「へ~上手だね。何を描いたの?」なんて聞くのです。子供にしてみれば、ただ線を引くのが面白いだけだったのかもしれませんが、そう聞かれると「んん~~ん、恐竜!」とかって適当に答えるのです。そんなことを繰り返すうちに、子供の頭には<絵を描くということは何らかの意味あるものを描くことだ>という感覚が定着するのです。そうなると、「今日は何を描こうかな…。そうだ、きのう動物園で見たゾウさんを描こう」とかってなるのです。しかも出来上がった絵を見た大人が、「ゾウさんはお鼻がもっと長いんだよ」って訂正したりします。こうやってこの国の子供たちは、図鑑に出てくるような絵を描くことが、上手でほめられるというアート感覚を身につけていくのです。せっかくの子供の柔らかい無限の可能性を持った感覚を、大人たちのカチカチの固定観念で壊してしまうのです。こんな残念なことはありません。

 アートというのは、自分の中にあるものを外へ出そうとする行為です。自己表現というときれいですが、ウンコやオシッコをするのと同じなのです。生きている者が自然に行う生理現象なのです。そこには本来的に何も意味はありません。「今日はどんなウンコをしようかな?」なんておかしいでしょ。ただ、出てきたものに満足したり満足できなかったりはあります。でもしょうがないのです。毎日絶好調というわけにはいきませんから。

 本来意味の有る無しとは関係のないものに対して、意味付けをしようとするのはどうしてでしょうか?そこに隠れているのが、「評価」というものだろうと思います。世間的な価値基準に基づいた優劣判断、とでも言えばよいでしょうか。これは何もアートや音楽や文学などに関することだけではありません。たとえば、人間の命。基本的人権や平等など、憲法では人間の命に優劣上下の差はないということ明記し、それを守れとなっています。憲法にそう掲げなければならないのは、現実がその逆の差別社会だからです。お金や力のあるなしで、その人の命に上下の評価が付いています。言ってみれば社会全体が価値評価によって動いているといってもいいのです。アートだって例外ではないのです。世間の価値基準によって、アートも評価されているのです。
 
 アートに本来の評価があるとすれば、それは観る人個々人の<好き嫌い>だけなのです。そうでなければならいのです。「私はこの絵が好き!」って。個展に来てくださった人に「おもしろいもの、ありましたか?」と聞きます。「これ!」って即答してもらえると、とてもうれしいです。なぜって、その人は世間の価値基準など関係なく、自分の感覚で好きって思ってくれているからです。最初に書いた「この絵のテーマは?」なんて聞いてくる人は、たぶん理屈をこねて意味付けをして、評価を下そうとする人ではないかと思います。「タイトルがないと分かりにくい」というのも同じです。分かる分からないというのは、自分の中にある意味分類で振り分け評価しようということです。ましてやコンテストや公募展になると、それこそ美術の専門家を名のる人たちが、業界での価値基準をしっかりと持って評価を下すのです。そこには○○美大出身とかの学歴や、〇〇展受賞などという経歴も評価の対象になるのかもしれません。くそくらえです。

●タイトルという説明文

 写真をやっていたころ、「写真は引き算」という言葉をよく聞きました。画面の中から説明的なことを極力なくす、という意味です。たとえば一人の人物を撮影しようとするとき、その人物の周りには現実にはさまざまなものがあるわけです。それらを見ることでこの人の職業は何だとか、どこに住んでいるのかとか、家族関係はどうだとか、いろいろな説明が生まれます。その説明が多いほど、その人の環境はよく分かります。でも肝心のその人の人間像みたいなもの、あるいはその撮影行為の本質はぼやけてくるのです。以前写真家の石内都さんが、ヒロシマ被爆者の衣服だけを丁寧に撮影した作品群を残しました。明るい光の中で、衣服以外には何も取り込まない写真でした。焼けたり破れたりしたその衣服の写真一枚から、計り知れない様々な人間の悲しい営みが紡ぎ出されていたのです。

 絵画は写真とは逆で、何もない白いキャンバスに線や形や色を足していきます。でもやはり、説明をしないことによって作品の本質が明快になる、ということは同じだと思います。それは具象画でも抽象画でも同じです。とくに抽象画は、もともと具体的な意味を持たない絵です。私はコラージュもよく使いますが、雑誌などからの切り抜きを使う場合でも、文字や数字を使う場合でも、極力意味の読み取れるものは使わないようにしています。1点でも意味を持つものがあれば、観る人はそこから意味付けを始めて全体を見ようとしてしまいます。

 そういう理由で、タイトルを付けるということは、初めからその作品の説明文を付けるようなことになるわけです。この絵はこうこうこういうことを描いているのですよ、みたいに。もちろん見る人が自由に見てくだされればいいのですよ、と言いながら、実は作家自身が枠をはめているのではないかと、私は思っています。

 このあさって画廊でも、作品紹介に説明文を付けています。でもそれは絵の内容とかテーマとかモチーフとかについての説明ではないのです。その絵の制作プロセスや、技法的なことについての説明です。それも不要だと言われればそのとおりです。でも少しでも興味を持っていただければという、私のケチな根性から出てきているのでしょうね。